「君は『最後の晩餐』を知っているか」の復習、定期テスト対策のプリントをダウンロード販売します。
この文章は評論文の読解教材です。
筆者が言いたいことは何か、はもちろん、
評論文を読むときのポイントや問題の解き方・答え方が身につくように作成しました。
授業ではなかなかわからない「構図」や「遠近法」などの用語の説明や、ダヴィンチ以前の「最後の晩餐」の解説など、図表もたくさん載せました。
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高校入試で出題される文章は、大きく「説明的文章」と「文学的文章」に分かれています。
「説明的文章」にはこの「君は『最後の晩餐』を知っているか」のような「評論文」の他に、一年生の「ダイコンは大きな根?」や二年生の「生物が記録する科学」のような「説明文」、これから学習する二年生の「科学はあなたの中にある」や、三年生の「『批評』のことばをためる」のような「論説文」があります。(教科書の目次に載っていますから、見てみましょう。)
評論文とは、説明文と論説文の中間にある説明的文章です。何か現実にあるものを批評し、それに対する自分の考えを説明する文章なのです。
「何かの事柄」とは現実にあるものとは限りません。実際に起こった事件や事故など以外に他人の考えを評論することもあります。逆に言うと、何かがなければ「評論」はできないため、「評論家」という言葉が、時として責任感がない傍観者で文句ばかり言う人の比喩で使われるような気がします。
ダヴィンチのいたのは、ルネサンスの時代です。そしてルネサンス以前は中世といって、ヨーロッパの文化といったらキリスト教一辺倒の世界でした。
この、中世キリスト教文化の中で描かれた『最後の晩餐』はどのような絵だったのでしょう。
当時の人々が見慣れた『最後の晩餐』とは、この絵のように、聖書の文言を絵にして説明したものでした。キリストがいて、弟子達がいて、ただそれを説明するための絵だったのです。
このような絵を見慣れていた人々にとって、ダヴィンチの『最後の晩餐』は、まさに「それまでの絵画とは違う、全く新しいもの」に感じられたのでしょう。
評論文を正確に読解するためには、評論しようとする対象に対する知識がある程度ないといけない、ということですね。
この評論文は、この「『かっこいい』と思った」理由を「じっくりと分析する」ことによって解説しようとしているのです。
この「それまでの絵画とは違う、全く新しいもの」は、次の段落で「科学が生み出した新しい芸術」に言い換えられています。
『最後の晩餐』は文化祭の時に体育館のステージ上に描かれる絵よりも大きな壁画です。この大きな絵の前に立つと「そんなことが感じられる」(第7段落)と言っています。
「こんなこと」とは直前の「何かが、起こっている」を示しています。何が起こっているかというと、7段落で述べている内容です。
そして、この段落のまとまりは「この絵の人物の構図」という言葉に集約することができます。
では「この絵の構図から」なぜ「何かが、起こっている」ことがわかるのでしょう。
「構図」って何でしょう。
左の絵は『けいおん!』(©かきふらい/京都アニメーション)のイラストです。
右から二番目の女の子(平沢唯)が最も大きく正面を向いて描かれています。見る人にとっては、最も近くにいる彼女に見つめられているのです。同時に彼女は、両端の二人の視線を集めています。これらのことから私たちは、この子が主人公であると感じ取ります。
また、この子と隣の黒髪の子は、ほうきをギターのようにして遊んでおり、よく見てみると他の二人も打楽器を叩いたりキーボードを弾いたりするまねをしていることから、このイラスト「学校」「遊び」「音楽」に関係する話だと、『けいおん!』を知らなくてもわかりますね。
この絵は、メンバーがV字型に並んでいます。そして前の絵の唯ちゃんがV字型の中央にいます。これによって、唯ちゃんの主人公感が更にアップしています。
こんどはメンバーの持ち物が清掃用具ではなくギターなどの軽音楽に用いる楽器になっています。
V字の配置は、何か目的に向かって進もうとしている5人であることを暗示しています。このことから、この話は軽音楽関係で何かをやろうとしているんだな、とわかります。
(実際には、軽音楽でコンクールに優勝しようとかいうのではなく、ごくユルい話なんですけどね。)
構図とは、表現の要素を組み合わせて効果を出す手段で、または画面の中の要素の配置のことを言います。『けいおん』のイラストでは、登場人物やその動作・持ち物などの要素の組み合わせや配置を工夫することを通して、『けいおん』という物語を表現していますね。
テキスト第7段落の「この絵の人物の構図」とは、この絵に登場している13人の一人一人の表情や仕草、そして彼らの全員の配置など、絵のすべてを通して、聖書の「最後の晩餐」というドラマを表現しているのだ、と筆者は言いたいのです。
では構図の目的は何なのでしょう。
構図の効果は、配置等によって、見る人の視線をイメージ全体に行き渡るよう誘導し、絵を興味深いものにします。ですから、絵で表現したいことと見る人の目の動きが一致するように構図を工夫することが大切なのです。つまり構図は「作者は何が言いたいか」をはっきり見る人に伝えることが目的なのです。
それまでの聖書の解説に過ぎない宗教画から、聖書に物語としての命を与え、教義を超えた解釈を盛り込んでドラマ化したという功績はこの「構図」によるものだ、と第19段落以降で筆者は述べています。
この文章の一つのポイントは、「最後の晩餐」でダヴィンチは何を表現したかったのか、を解き明かそうとしています。
そしてダヴィンチが表現したかったものを効果的に表現するための手法が、この構図であり、それを生かす手段が「解剖学」「遠近法」「明暗法」なのです。「解剖学」は人物のデッサンをより正確にするためのものであり、「遠近法」も「明暗法」も構図の要素の一つに過ぎません。
わたしたちは、この評論を読むときに「絵画の科学」に目が向きがちですが、これらはすべて構図を成立させるための要素であり、ダヴィンチが表現し絵を見る人々に伝えたかったことを表現するための手段にすぎないのです。
それまでの『最後の晩餐』は、宗教画として聖書の説明のために描かれたものでした。ですから、ダヴィンチの『最後の晩餐』以前の絵では、イエスの弟子たち(聖人)は、ただ座っているだけで、弟子達の気持ちは描かれませんでした。
ところが、ダヴィンチは、この聖人たちを、驚きや怒り、悲しみを持つ生身の人間として描こうとしたのです。
遠近法は、イラストなどではバースとも言われる描法です、第12段落で述べられている通り「遠くにいくにつれて小さく描く」書き方は「線遠近法」と言われます。
他にも遠くに行くほど色が薄くなる「空気遠近法」や、ものの重なりにより遠い近いを示す「畳重遠近法」などがあります。遠近法を用いて描くと、その絵は「奥行きが感じられるように」なります。
教科書で説明されているものは線遠近法です。そして『最後の晩餐』のポイントは、小さく描いていく比率を、実際に見える比率と同じにしてあるため、第14段落「壁に描かれた部屋は、あたかも本物の食堂の延長にあるように」見えるのです。
線遠近法には消失点があります。ダヴィンチが用いたのは一点透視図法です。最近では消失点が二つある二視点透視画法というのがあって、目の錯覚を利用して空間を広く見せる技法がイラストやアニメで用いられています。ダヴィンチの時代にはこの技法はありませんでした。
簡単に言うと、消失点というのは、マンガなどによくある集中線の集中するところでもあります。
『最後の晩餐』の消失点に集中線をあわせてみると、イエスに注目が集まることがよくわかります。マンガではありませんから、遠近法の消失点を利用して中心人物を際立たせようとしているのです。
『最後の晩餐』に「描かれた(イエスのいる)部屋の明暗」は、実際の「食堂の窓から差し込む現実の光の方向と合致」させてあり、それによって見る人は「壁に描かれた部屋は、あたかも本物の食堂の延長にあるように」錯覚してしまう。それをダヴィンチは計算して描いたのだ、と筆者は言っているのです。
このため14段落以降では、あえて立体感や量感を出したり中心となるものを際立たせたりするために用いる「明暗法」という言葉を使わなかったのだと思います。
第19段落に「だから、いきなり『かっこいい。』と思えるのだ。」とあります。これは、第3段落の「なぜか『かっこいい。』と思った。」に対応する部分です。「かっこいい」と思った理由が第5段落以降の本論であり、この第19段落が結論部分といえるでしょう。
単純に考えると「だから」の直前「つまり、レオナルドが絵画の科学を駆使して表現したものが、とてもよく見えてくる」から「かっこいい」と思えると筆者は言っています。
ここでいう「絵画の科学」とは第3段落で言う「解剖学」「遠近法」「明暗法」などですが、これを駆使して描いたから「かっこいい」と思ったのではありません。「絵画の科学を駆使して表現したものが、とてもよく見えてくる」から「かっこいい」と思ったのです。
では「絵画の科学を駆使して表現したもの」とは何でしょう。
この文に「つまり」とありますから、この文は直前部分「絵の構図がもっている画家の意図」を言い換えたものです。ですから、第19段落の最後の部分をまとめると、次のようになります。
更に、第19段落を要約すると、次のようになります。
ということになります。
では「画家の意図」とは何でしょう。
「絵の構図がもっている」ものとは「そこ(『最後の晩餐』)に描かれた人物たちの物語を、ドラマティックに演出」(第13段落)することです。キリストと12使徒の最後の晩餐の場面を生き生きと表現することだけでなく、それがまるで観客(修道士たち)の目の前で演じられる舞台のように感じさせようとする、ダヴィンチの舞台監督のような意図だと筆者は言っているようです。
つまり「解剖学」手のポーズはもとより「顔の表情や容貌」(第11段落)、動作等「一人一人の心の内面までもえぐるように描く」ため手段であり、「遠近法」や「光の明暗」も「あたかも本物の食堂の延長にあるようにすら見える」(第14段落)ための手段に過ぎないのです。
完成当初は細部の描き込みに圧倒されたために「本当の魅力=絵画の科学を駆使して表現しようとした画家の意図」が見えなかっただろう、と第20段落で言っています。第20段落末の「レオナルドが描きたかったのは『それ』なのだ」の「それ」とは、「そのような『全体』」であり、「ぼんやりした形の連なり」です。そこに「この絵が持っている本当の魅力」があると言っています。そして「本当の魅力」とは、聖書における最後の晩餐の一瞬を登場人物のドラマとして生き生きと描き、修道士たちを「まるでキリストたちといっしょに晩餐をしているかのような気持ち」(第16段落)にさせることです。
この評論文は、「絵画の科学」が「画家の意図」を実現させる手段として成功しており、そこが「かっこいい」のだ、と言っているのではないでしょうか。
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