古今和歌集仮名序

君待つと


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高校入試で、和歌が単独で出題されることは、あまりありません。歌物語の一部として出題されることが多いようです。

そこで歌物語で有名な「伊勢物語 東下り」を補習用教材として作成しました。和歌の代表的な技法もしっかり解説されています。

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古今和歌集仮名序

 古今和歌集仮名序は、紀貫之が書いたとされています。「仮名序」つまり仮名で書いた序文、という意味です。仮名じゃないものもあります。漢文で書かれたもので「真名(まな)序」と言います。古今和歌集は仮名序と真名序の、あわせて2つの序文があるのですね。

 仮名序では、教科書に載っている冒頭部で、和歌の本質を説明し、それから和歌の分類や和歌のあるべき姿が書いてあります。その中で歌人の理想像として柿本人麻呂と山部赤人の二人の歌聖や六歌仙をあげています。

紀貫之と『土佐日記』

 仮名序の著者、紀貫之は『土佐日記』で有名な歌人です。『土佐日記』は「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり(男の日が書いている日記というものを、女である私も書いてみようと思って書きました)」という書き出しの、土佐国を出発し都に帰るまでを記した日記文学です。

 女性が書いたような冒頭文ですが、紀貫之はれっきとした男です。元祖ネカマ文学ですね。当時、漢文こそが本当の文字でした。漢字の草書体を崩した仮名は、女性が使うものでした。紀貫之はこの仮名に思い入れがあったのでしょう。作者が女性として『土佐日記』を書いたのですね。

 紀貫之は国司の任期を終える直前に愛娘を亡くしています。ですから『土佐日記』の内容は、その旅の様子(特に海賊の話)なのですが、もう一つ娘を失った悲しみが書かれています。


万葉集

 日本最古の勅撰(天皇が命令して作らせた)歌集です。クイズなどで「日本最古の歌集は?」「万葉集」と答えさせる有名なヒッカケ問題があります。「日本最古の和歌集は?」だったら「万葉集」で正解なのですが、単に「歌集は?」と言われたら「懐風藻(かいふうそう)」という漢詩集です。

 当時「歌」と言えば漢詩。仮名のなかった時代です。ですから万葉集も漢字の音を利用した「万葉仮名」で書かれています。

 万葉集は「七・五調」の歌が多く、実際に見た具体的な描写が多いのが特徴です。「万葉調」とか「ますらをぶり」と言われています。

春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山

 二・四句切れ、体言止め

    645年、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿を暗殺、クーデターを起こしました(乙巳の変)。中大兄皇子はその後皇太子として様々な改革(大化の改新)を断行します。その間、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃(粛正)しました。

    この時期、朝鮮半島も動乱の時期でした。660年に百済が唐・新羅に滅ぼされ、百済復興をはかって中大兄皇子は白村江の戦いを起こしました。(この背景には、中臣鎌足が実は百済人だった、という説もあります。)ところが社会の授業で習ったように日本は敗戦。逆に日本が責められる可能性を考えて九州に一大防衛拠点を建設します。これが太宰府で、集められた人が防人です。

 中大兄皇子は、その後668年に即位し天智天皇となり、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟、息子の大友皇子を皇太子としました。しかし天智天皇と大海人皇子の中は悪く、天智天皇の死後、皇位継承を巡り大海人皇子と大友皇子が争ったのが壬申の乱であす。この乱は大海人皇子の勝利におわり、天武天皇となりました。

 作者の持統天皇は、中大兄皇子(天智天皇)の娘、大海人皇子(天武天皇)の后です。大海人皇子との間に草壁皇子をもうけました。そして壬申の乱では妃の中でただ一人夫と行動を共にし、自分の甥と戦いました。そして壬申の乱後は夫の天武天皇と共に政治に参画しました。草壁皇子は早くになくなってしまい、夫の死後、孫の軽皇子を天皇にしようと、軽皇子が即位するまで持統天皇として皇位についた、女帝です。

    歴史の評価としては、大化の改新の理想を継ぎ、律令国家を中臣鎌足の子、藤原不比等と共に完成に導いたとされています。

   持統天皇は694年、都を天武天皇以来の飛鳥浄御原(きよみがはら)宮から藤原の地へ移しました。壬申の乱の影響も消え、安定と繁栄の時代を迎えようとしていたときです。

 

   歌の言葉だけから考えると、香具山の山腹に干されている衣の際立つ白さを見て、夏の訪れの喜びを読んだ内容です。香具山は高(たかま)天(の)原(はら)に通じる山とされ、畏敬と親愛の対象として特別な山です。持統天皇は、血で血を洗うような戦乱の時代を過ぎて平和の訪れを感じ取っていたのではないでしょうか。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ

二・三句切れ

 子供や家庭に対する愛情がよく表れた歌です。しかし一方で、宴を閉じるきっかけを作るための歌という説もあります。

  白村江の戦いをきっかけに、九州太宰府に人材が集められ、防衛の拠点となりました。今で言う中央官庁でした。ですからここには優秀な役人も集まり、その中には優れた歌人もたくさんいました。(筑紫歌壇)その一人が山上憶良です。

 宴会の席で、家族を理由に「もうおしまいにしましょう」と呼びかける歌ということですね。

 

    山上憶良の句に、社会科で有名な「貧窮問答歌」があります。

→貧窮問答歌はこちら

 

多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき

 句切れなし 序詞

 序詞というのは、ある言葉を引き出すための前振りの言葉です。この歌の場合は、「さらさらに」という言葉を引き出すための序詞が「多摩川にさらす手作り」です。作者が言いたかったのは「さらにさらに、なんでこの娘がこんなにも愛しいのか」ということ。まあ、その愛しい人が、多摩川で布をさらす若い娘さんだったのかもしれませんが、そうだ、と断定することはできません。

 東歌とは、近江・信濃から奥羽までの東国で生まれた歌のことです。生活のさまざまな場面をリアルに詠った歌が多く、当時の東国方言がそのまま使用されています。

    口伝えで伝えられた東国の民謡を、都の官人や文化人が和歌の定型の中に書きとめたものなのです。(これは次の防人歌も同じ。)農民が自ら文字を書いて創作したものではありませんよ。

父母が頭かき撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる

 句切れなし 係り結び(言ひし言葉忘れかねつる

 白村江の戦いに敗れた後、警備のために九州北部・壱岐対馬に約三千人程度の人が集められ、配置されました。集められたのは主に東国の農民でした。

    任期は三年で、毎年三分の一が交代しました。今だったら当然食費等は政府負担ですが、当時は食料・武器は自弁でした。更に防人に行っている間も租庸調の税は免除されることがありませんでした。更に九州に行くまでは係の役人が同行しましたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いもなく、途中で野垂れ死にする者も少なくありませんでした。

 防人に徴用された人は、子どもではありません。ある程度歳をとった若者以上、年寄り未満の者です。決して小さな子どもではありません。この歌は、この世で見納めと思い「幸せでいろよ」と自分の頭をなでてくれた、年取った両親を思い出して詠んだ歌なのです。


古今和歌集

 万葉集が七五調であるのに対し、古今和歌集は五七調の歌が多いようです。景色はもちろん、「香」や「音」などに対して、繊細な感性を働かせて自分の思いを述べる点が、「理知的」と言われています。

 この時代、和歌を上手に詠むことが貴族の教養の一つでした。また、恋愛の歌が多いのが特徴です。優雅でなめらかな調べは「古今調」とか「たをやめぶり」と言われています。

はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

 二句切れ 係り結び=花昔の香りににほひける

    古文で「花」と言えば桜(漢文では桃)ですが、この歌が詠まれた時代は梅です。人間(人の心)と自然(ふるさとの花)の対比的に描かれています。

 この歌の詞書き(ことばがき)には、次のように書いてあります。

 初瀬(長谷寺)に詣でるたびに止めてもらっていた人の家に、しばらくぶりに訪れた時のことです。その家の主が「このように家はあるのに(私は待っていたのに)お見限りですね。」と皮肉られました。そこで、その家の庭に咲いていた梅の一枝を折って「かつては歓待してくれたのに、少し来なかっただけで、人の気持ちは変わってしまうのですね」と返した歌です。

 別に、この二人はけんかをしたわけではありません。親愛の情にユーモアをこめて言葉のやりとりをしたのです。これが平安時代の貴族の教養なのですね。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

 当時の結婚というのは、今とはまったく違います。婚姻届も出さなければ、結婚式もあげません。一緒に暮らし出すとそれが結婚。一緒に暮らすと言っても、毎晩女の人の家に男の人が訪れてくるというものでした。

 ですから、男の人は何人もの女の人と簡単に結婚することができました。しかし、女の人にとって、今のようにケータイもメールもありませし、気軽に外を出歩くという習慣もありません。男の人がやってこなくなってしまうというのは、女の人にとってはとても大変なことだったです。(感情的にだけではなく、経済的にも。)

 ですから「今日はあの人がやってくるかしら」というのは、とても切実な気持ちだったのです。


新古今和歌集

 「しばしとてこそ立ちどま」ったけれど、しばしではなく時を過ごしてしまった、という西行法師の歌のように、また「花も紅葉も」ない「浦の苫屋の秋の夕暮れ」の藤原定家の歌のように、どうだったのか、どんな感情を呼び起こしたのかを表現しない、読者が抱いた余情に訴える歌が多いのが特徴です。

 このようなスタイルは、「新古今調」と言われ、能の「幽玄」や茶道の「侘び・寂び」に受け継がれていきます。 

道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ

 三句切れ 係り結び(しばしとてこそ立ち止まりつれ

 作者の西行法師は、鳥羽上皇の北面の武士出身です。二十三歳の時に出家しましたが、理由は高貴な女性への失恋・政治的原因・熱烈な求道心など諸説あります。

    生涯三度の大旅行で多くの歌を詠みました。元祖「旅の歌人」です。日本全国に伝説が残っています。散る花、散る桜を耽美的に詠んだ歌が多い。

    松尾芭蕉は西行の追っかけで、「おくのほそ道」の旅の途中に、この場所を訪れ「田一枚植ゑて残れる柳かな」という句を残しています。 

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

 縁語=「絶え」「ながらへ」「弱り」は、いずれも「緒」の縁語。

 係り結び=弱りも する 

 玉の緒=「緒」は「ひも」。もとは「玉」すなわち宝石をつなぐひものことだが、「魂の緒」の意味で「命」を表す。

   忍ぶることの=恋心を人に知られないように秘めている力。

 作者の式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、母は以仁王の同母妹です。また、壇ノ浦で散った安徳天皇の叔母にあたります。

 

 以仁王も後白河天皇の皇子です。ですから式子内親王は以仁王の弟にあたります。(「おや?)と思った人……当時、そういうことはよくあることだったのです。)

 幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていて、皇位継承の有力候補でしたが、政争に敗れ失脚しました。更に1179年、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を幽閉した際、以仁王も財産(領地)を没収されました。

    そこで、1180年、以仁王は平氏討伐を決意し、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発します。しかし挙兵する寸前に平氏に計画が漏れ、討たれてしまいました。結局、以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったですが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となりました。

 一方、父親の後白河法皇ですが、34年にわたり院政を行いました。この間、保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎました。後白河法皇は、二条天皇・平清盛・木曾義仲と時の権力者と対立し、何度も幽閉・院政停止に追い込まれましたが、そのたびにしぶとく復権しました。一見、政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄されたような感じがしますが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築しました。ものすごくしたたかさだったのでしょう。源頼朝から「日本一の大天狗」と言われています。

 式子内親王の生きた時代はまさに戦乱に明け暮れた『平家物語』の時代でした。そして彼女の弟以仁王や父後白河法皇、甥の安徳天皇は『平家物語』の主役級の人物なのです。式子内親王は、そんな激動の時代に不遇な生涯を送った薄幸の女性だったのではないでしょうか。ですから彼女の歌は、哀愁をたたえた叙情的な歌が多いようです。

 「生きていると、恋心を人に知られないように隠し通す力が弱ってしまうかもしれない。だから死んでしまう方がマシ。」という内容は、恋に恋するレベルや単純な恋愛感情からでは言えないセリフだと思います。親子・兄弟が殺し合う凄惨な時代と環境を背景としたものなのではなかったのでしょうか。 

    


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