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こんな宣伝、見たことありませんか?
「開運」とか「ダイエット」とか、雑誌に載っていること多いですよね。
「ウソだろ……」と思って読んでみると、成功例とか科学的根拠とかいろいろ書いてあって、なんとなく信じそうになることってありませんか?
大人の世界では、「投資」とか「外国為替取引(FX)」とか、お金がらみでそういう宣伝がたくさんあって、それを信じて被害にあう人もたくさんいます。
こういうパンフレットは、読んだ人に信じてもらえるように、一見きちんと論理立てて説明されているように感じられる書き方をわざとしているのです。
これは、詐欺などの犯罪をもくろむ人たちが書く文章だけではありません。大企業や政府だって、自分に都合よい方向で納得してもらえるように、様々なことをしています。ニュースなどによく出てきていますね。
このようなアブナイ話にごまかされず、自分の頭で「何が正しく、何が誤りであるのか」をきちんと読みとることは、これからの世の中で生きのびていくための大切な力となります。
この教材を通して、他人にごまかされない生きのびる力をつけていきましょう。
そのために、教科書に書いてあるからと言って、それを鵜呑みにせず、それが正しいかどうか疑って読みましょう。
この文章の結論は、「考察」の項のにある
と考えられます。
なぜなら、この文は「二つの仮説は支持された」結果にあたるからです。
更に、他の文の文末は、「考えられてきた」「わかってきた」「感じている」「見ていくつもりである」「調べてみたい」「喜びである」となっており、「考察」というタイトルに対応したものとは言えません。
では、この考察は正しいのでしょうか。「仮説の検証」の部分と比べてみましょう。
結論文を次のように分けてみましょう。
2~5の、それぞれの部分と、「仮説の検証」の結論部分とを比べてみます。結論文は、文章のまとまりの最初か最後に書いてありますから、探すのは簡単です。
2.は、「一について イネ科の草の供給量の測定」の結論部分「春は、シカの本来の食物が不足している時期なのである」と対応しています。
3.は、「仮説の検証」の中の「興味深いデータ」の部分の結論文「春先は、一年の中で、シカの栄養状態が特に悪い時期なのである」という部分と対応しています。
4.は、「シカの本来の食物であるイネ科の草の供給量」が少ないので、「自力では獲得が難しい」といえるでしょう。
5.は、「二について 食物の栄養価の分析」の結論文「サルの落とす食物は、シカの本来の食物よりも栄養価が高いのである」と対応しています。
このように「仮説の検証」の結論部分と「考察」の結論文とは、同じ言葉や同じ意味の言葉が使われていますから、結論は「仮説の検証」と正しく結びついているといえるでしょう。
「仮説の検証 一について」の結論文は、
です。これは正しいでしょうか。
測定した結果わかったことは、
とあります。
図2をよく見ると、確かに6月~10月(または5月~11月)は多いと言えます。逆に12月~4月は少ないと言うこともわかります。ですから図2からわかることを正確に言うなら「冬と春は、シカ本来の食物が不足している」となります。
筆者はわざと「冬もシカ本来の食物が不足している」と言わなかったことがわかります。
考えてみればこれはあたりまえのことかもしれません。「シカ本来の食物であるイネ科の草」は、冬にはほとんど生えていません。シカは冬眠はしませんが、餌がないため活動量が極端に少なくなるそうです。ですから特に「不足している」わけではないのかもしれません。また、調査しているのは宮城県男鹿半島ですから、雪に覆われているのかもしれません。
だから筆者はわざわざ説明する必要がないと考えて、冬を無視したのでしょうか。
理由はそればかりではないと思います。仮説は「春は、シカ本来の食物が不足している」というものでした。その検証結果として「冬と春は、シカ本来の食物が不足している」「春ばかりでなく、冬もシカ本来の食物が食物が不足している」と結論づけたらどうでしょう。仮説は誤りだった、ということになってしまいます。だから仮説一にあわせて結論を「春は~」と書いたのだと思います。
「春は、シカ本来の食物が不足している」と言っても、ウソを書いたことにはなりません。このような書き方をすることにより、自分の望む(自分に都合の良い)結論につなげる書き方は、世の中ではたくさんあります。
大切なことは、それに気がつくかどうかです。筆者は別に悪気があってこの文章を書いたわけではありません。しかし、世の中には、わざと読み手をだますためにこういう文章を書く人がたくさんいます。そしてそれは「だまされた方が悪い」と考えるのが世の中です。大切なことは、それに気がつくかどうかです。(大切なので二度言いました。)気がつく人になってくださいね。
「栄養価を比較するために」筆者は分析を行いました。
「栄養価」って何でしょう。分析結果として
とあります。
「脂質やたんぱく質、炭水化物など」は、家庭科で学習したとおり「栄養素」と言います。脂質・たんぱく質・炭水化物(糖質)の他に、ビタミンやミネラルなどがあります。ビタミンはミネラルなどは、量はたくさんなくても良い栄養素です。大切なのは、栄養素は、たくさんの種類をとらなくてはならない、ということです。だから「~などの(種類)が豊富で」と書いたのですね。
一方「エネルギーの量」とは、脂質やたんぱく質、糖質を熱量(カロリー)に換算した値です。カロリーが多いほどたくさん活動することができます。そして脂質・タンパク質・糖質を合わせた量が多ければ当然熱量も多くなります。だから「エネルギーの量が多い」と書いたのでしょう。
「栄養価」とは、栄養素の種類(質)とカロリーの量を総合的に判断した、食べ物の価値のことを言います。だからわざわざ「~豊富で、~量が多い」と書いたのですね。
たった一文の結論ですが、これだけの意味が隠れているのです。これを知っているかいないかが、読み手の教養の差につながります。中学校までの勉強って、とっても大切なのです。
ただし、表2とこの結論文との関係に問題がないわけではありません。
「『落ち穂拾い』で採食した食物」って何でしょう。表1によると「十六種二十二種類」あったそうです。春のソメイヨシノの果実(さくらんぼの小さいもの)や秋のコナラの堅果(ドングリ)と、冬のエノキの樹皮とでは、同じ栄養素・エネルギー量があるとは思えません。どれを分析したのでしょうか。あるいは十六種二十二種類の平均値を求めたのでしょうか。平均値を求めたとすると、それはどのような比率だったのでしょうか。
まったく書かれてはいませんから、表2は疑われてもしかたのない結果といえます。
しかし、国語の教科書でそこまで疑っても話が進みませんから、まあ、そういうことにしておきましょう。
仮説は次の二つです。
これらは「観察からわかったこと」からきちんと導かれているでしょうか。
①「落ち穂拾い」は、三月から五月にかけての春に集中していた(図1)。
②「落ち穂拾い」で、シカは十六種二十二品目の植物を採食した(表1)。
③「落ち穂拾い」をするシカの数は、一回当たり一頭から二十一頭とばらつきがあった。
④サルが樹上で採食するときには、途中で食べ飽きて枝を捨てることなどが多く、木の下には意外に多くの植物が落下していた。
ここから筆者は、「記録をつけながら、私はシカが「落ち穂拾い」をする理由」を考えました。その考えた結果は、
A わざわざサルがいる木の下まで集まってくるのだから、サルの落とす食物には、シカにとって何か魅力があるはずだ。
B また、その行動が春に集中するというのも不思議である。
です。
これを疑問形に書き換えると次のようになります。
A’ サルの落とす食物には、シカにとってどんな魅力があるのだろうか。
B’ その行動が春に集中するのはなぜだろうか。
A’は②と関係があります。そして仮説二と直接結びついています。(仮説一とも少し関係があります。)またB’は①と関係があり、仮説一と結びついています。
「観察からわかったこと」に書いてある順番と「仮説」の順番が変わっています。これは仮説一がまず大切なことで、その上で仮説二が成り立っているためだと思います。まず「春先にはシカがおなかをすかせているのに食べ物がないから「落ち穂拾い」をするのだ、ということが前提で、その上でたまたま「サルの落とす食べ物は栄養がある」というのが、筆者の言いたい順番なのだと思います。もし「サルの落とす食べ物は栄養がある(おいしい)」ことが一番大切なら、シカは夏でも落ち穂拾いをしますからね。
では「観察からわかったこと」は正しいでしょうか。
「『落ち穂拾い』は、三月から五月にかけての春に集中していた(図1)」とありますが、本当でしょうか。
図1では、4月が極端に多く30%以上の確率で「落ち穂拾い」に出会うことができました。次いで3月と5月が5%前後、9月が5%以下です。つまり、4月は10時間シカを観察していれば3回くらいは「落ち穂拾い」をするのを見ることができるが、3月と5月は100時間観察しても5回くらいしかしない、ということです。一ヶ月に100時間観察するって、一日3時間毎日観察に行くのか一日10時間を10日かけて観察するのかはよくわかりませんが、めったに出会えないことだと思います。
ところが「月ごとの「落ち穂拾い」の観察回数」を見てみると、5月が13回と最も多く、4月は3月よりも少ない6回しか「落ち穂拾い」に出会っていません。なぜでしょう。
これは、図1は「『落ち穂拾い』に出会う割合の変化」とあり「割合」によって書かれたものだからです。5月は203.3時間観察に出かけており、その中で13回出会いました。一方4月は18.7時間しか観察に出ていませんが、その中で6回出会ったことがわかります。1時間当たりに「落ち穂拾い」に出会う回数を出会った回数÷時間で計算すると、5月よりも4月の方が多くなってしまうのです。
他の月はたいてい100時間くらい、3月と5月は200時間も観察に行っているのに、4月だけ18時間というのは、「なぜ?」とつっこみたくなるところですね。
まあ、それはそれとして、春は450時間くらい観察して30回近く「落ち穂拾い」出会っていますから 「三月から五月の春に集中」ということに間違いはありません。
一方、他の月もだいたい100時間くらい観察したとすると、9月は4回くらい、10~11月は1~2回「落ち穂拾い」に出会っていることになります。300時間くらい観察して5回くらいしか出会えていません。
それにしても不思議なのは、10回も出会えていない秋の「落ち穂拾い」なのに、表2を見ると、本当にいろいろな種類のサルの落としたものを食べているということです。
夏は7月に1回、冬は一月に2回くらいですから、一種類でも仕方がないと思います。特に冬には食べられるものが木の皮(樹皮)くらいしかないのでしょう。
しかし、図2「イネ科の草の供給量の変化」から、秋は夏より若干少ないとはいえ、相当「シカ本来の食物」があるはずです。別に「落ち穂拾い」をしなくてもよさそうなものですが、それでもシカは、葉っぱばかりでなく、ドングリを初めとするいろいろな木の実(堅果・果実)を食べています。この時期、サルも冬に備えてそういうものをたくさん食べますから、シカも「落ち穂拾い」をするときには相当ガツガツ食べているような気がしますね。
「観察からわかったこと」の図1や表1からは、筆者が述べている「集めた記録からわかった」こと以外に、いくつかのことがわかります。しかし、これらについて筆者はまったく触れてはいません。
これはルール違反とは言えません。なぜなら筆者が書いた「わかったこと」は間違いではないからです。間違いで無ければ正しいとするのが世の中の考え方です。自分の仮説や結論に結びつけるために「正しい」ことをいっているのですから問題はないのです。
しかし、何度も言いますが、読み手を信じ込ませるために反則ギリギリの書き方を「わざと」して、誤った方向に導こうとする人も世の中にはたくさんいます。このような書き方に惑わされない力を身につけましょうね。
筆者は、シカの観察をきっかけにして、疑問を持ち、仮説をたて、検証をし、結論を導きました。日本の教科書に載っている内容ですから、「全部フィクション、ウソでした」ということはないと思います。
しかし、これは何によって証明されているのでしょうか。最初の「観察のきっかけ」に次のようにあります。
つまり「フィールドノート」のある・なしが、この研究が実在することを保障しているのです。
研究……特に自然科学系の研究では、この「フィールドノート」のある・なしがとても重要なことと考えられています。2014年「STAP細胞はあります」という台詞で有名な小保方晴子さんは、実験結果に疑問をもたれフィールドノートの提出を求められました。しかしきちんとしたフィールドノートは提出できなかったようです。そして結局STAP細胞はない、という結論に至ったのですが、フィールドノートというのはそれほどまでに大切な証拠となるものなのです。
2014年と言えば、筆者がシカの「落ち穂拾い」の観察をしていた時期です。ですからよけいにフィールドノートにこだわりがあったのでしょうか。わざわざ自分のフィールドノートの写真を載せて、副題も「フィールドノートの記録から」としたのでしょうか。
説明的文章には、製品の取り扱い方を正しく読み手に伝えるための電化製品のマニュアルのような説明文から、筆者の頭の中にある考え(筆者の主張)を正確に読み手に伝える論説文まで、様々な種類があります。そしてこの「シカの『落ち穂拾い』―フィールドノートの記録から」は、研究論文の書き方ととても似ています。
では、この文章の内容は「研究」と言ってもよいのでしょうか。
研究には、次の三つの条件を備えていなくてはいけないと考えます。
更に、インパクトファクターが高いもの(評価の高い雑誌等に取り上げられたり、他の研究にどのくらい引用されるか)ほど「良い研究」と評価されます。
この三つを満足させることができているか、調べてみましょう。
客観性・妥当性とは、研究の筋道が論理だっており、誰が読んでも正しい(間違いとは言えない)ことです。
これまで、「観察のきっかけ」から「考察」まで、一つ一つつじつまがあっているか確かめてきました。また、「観察のきっかけ」ではフィールドノートの存在が示され、研究の証拠が残されていることもわかりました。
ですから、客観性・妥当性はあると考えてもよいでしょう。
独創性・新規性とは、その研究がオリジナルのものであり、今まで誰も主張したことがない新しい内容であるということです。
この文章は、本当に自分が世の中で初めて考え、主張したものなのでしょうか。
「観察のきっかけ」には次のように書かれています。
この一文は、
という宣言なのです。
更に「考察」で
と、ニホンジカの研究が専門の筆者がこう言い切っているのですから、シカの「落ち穂拾い」についてはほとんど知られておらず、この研究が最初である、と(ドヤ顔で)宣言しているわけです。
独創性・新規性があると言ってもよいとおもいます。
一般性・普遍性とは、研究した結果が限定的なものではなく、いつでもどこでもそれがあてはまるものである、ということです。
「シカにとってサルは、食物が乏しく栄養状態の悪い時期に、自力では獲得が難しい、しかも栄養価の高い食物をたくさん落としてくれる、ありがたい存在である」という結論は、金華山に住むシカにはあてはまるのかもしれません。逆に金華山にしか言えないことだとすると、一般性・普遍性があるとは言えません。
この文章に、どんな内容を付け足せば、一般性・普遍性があると言えるのでしょうか。
これらがいえるかどうかが一般性・普遍性の鍵となります。
更に「仮説があてはまらなくなった状態」を明らかにすることはとても重要なことです。これは「反証」と言って、仮説の限界を示すことで、逆にその限界に至るまでは仮説は正しいと言い切ることができるようになるのです。
他に「シカが『落ち穂拾い』をする理由は、他にはないのか」を確かめて反証することもできそうです。
いずれにせよ、このままでは「研究」としては十分なものではないような気がします。(でも、教科書の教材としては十分です。この文章は理科の教材では無く、国語科の教材なのです。)
がんばりましょう。