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「論語」を用いた応用問題を作成しました。

いずれも高校入試等で出題された問題をもとに作成してあり、「御伽草子」等他の古文や、評論文との複合問題です。

当然、解答用紙、細かな解説付きです。

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学びて時にこれを習ふ


学びて時に之を習ふ

書き下し文

子曰はく、「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。

朋遠方より来たる有り、亦楽しからずや。 

人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」と。

大意

 孔子はおっしゃいました。

「教えを受け教養を身につけ(その学んだことを)その時々に応じて反復練習する。(そうすると理解が深まり自分のものになってくる。)とてもうれしいことではないか。

(このように学問に励んでいると、自分と同じく学問に志す)友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれる。(そして学問について語り合うことができる。)とても楽しいことではないか。

 

(しかし、自分の学問を)世の中の人が認めてくれないからといって不満に思ったりはしない。なんとりっぱな人物ではないか。」

語釈

  • (置き字)

 漢文には、訓読するときには読まないで、単に置いてあるように見える文字があります。これが「置き字」です。

 置き字は、訓読する際には読みませんが、単なる飾り文字などではなく、文の構造や文章の流れを構成するうえで重要な働きをしています。ですから、漢文を正しく読み取るためには、主な置き字とその働きを理解しておくことが大切です。

 主な置き字には「而」「焉」「矣」「於」「于」「乎」の六字があり、次のように、働きごとに三つに分けて整理することができます。

  • 」=句と句をつなぐ接続詞のような働きをする。

 文中に置かれ、前後の句を「順接」または「逆接」でつなぐ働きをします。「順接」と「逆接」のどちらの働きをするかは、「而」の直前に読む語の送りがなによって見分けることができます。

 順接の場合、「而」の直前に読む語の送りがなが「〜テ、〜シテ」、逆接の場合、「而」の直前に読む語の送りがなが「〜ドモ」です。

  • 」「」=文末で意味を添える終助詞のような働きをする。

 文末に置かれ、断定・感嘆などを表し、語調を強める働きをします。

  • 」「」「」=ほかの語との関係を示す前置詞のような働きをする。

 文中に置かれ、次のような三つの働きがあります。どの働きをするかは、直後の語についた送りがななどから判断することができます。

  1. 場所・対象・状況などを示す=直後の語の送りがなが「ヲ」「ニ」
  2. 動作の起点を示す=直後の語の送りがなが「ヨリ」
  3. 比較を示す=直後の語の送りがなが「ヨリ〔モ〕」で、述語に当たる語が形容詞・形容動詞

 とりあえず、置き字は訓読されないので、返り点や送りがなはつきません。「読まない字」として覚えてしまいましょう。

  • 「学」と「習」の違い

「学ぶ」とは、教えを受け、教養を身につけること。具体的には詩(『詩経』)や書(『書経』)などの古典やを学び、礼(儀式・行事や日常生活での礼儀作法)や楽(音楽)の勉強をすること。

「習う」とは、復習をして理解を深めること。繰り返し練習すること。「おそわる」意味はない。「習」という字は鳥が飛ぶことを表し、朱子は、ひな鳥が何度も飛ぶ練習をする意味にたとえて説明している。

「学習」ということばは、この「学」と「習」をあわせてできたもの。

  • 「説」

「悦」と同じ意味。心のなかでひとりよろこぶこと。

  • また~からずや

「なんと~ではないか」と訳す。疑問の形の反語強い肯定を表す。

「またよろこばしからずや」は、「なんとうれしいことではないか=とてもうれしい」、「またたのしからずや」は、「なんと楽しいことではないか=とても楽しい」、「また君子たらずや」は「なんとりっぱな人物ではないか=とても立派な人物だ」の意味。

  • 「朋」

ここでは、学問の仲間の意味。

  • 「慍」

心に不満をもつ。むっと腹をたてる。

  • 「君子」

 とても立派な人物のこと。理想的人格をもつ人のことをさす。儒教では、円満完全な「聖人」に次いで、「君子」を学問修養の目標とした。

解説

 孔子は、自分の考えを受け入れてくれる君主を探して諸国を旅しました。彼の考えとは、かつて栄えた周の国のような政治を復活させることです。

 周の国とは紀元前1000年頃の話で、孔子の時代から見ても500年も前のことです。孔子の時代では、「昔々のすばらしい世の中だった」という伝説の世界で、いったいどんな政治をしていたのか、どんなことをしていたのかよくわかりませんでした。

 そのため孔子は、500年前の周ではどのようなことをしていたのか、いろいろ調べ知ろうとしました。

 これが「学ぶ」の意味です。そして、しっかりと自分のものにするために、学んだことを繰り返し復習しました。これが「習う」の意味です。これは自分の喜びである、というわけです。

 そして「周の政治を復活させる」という自分の考えを実行してくれる国を探して旅する孔子のもとに、考えを同じくする同志が、わざわざ遠くから訪ねてきてくれます。

 この同志が「朋=友」です。孔子にとってとてもうれしく、心強いことだったと思います。とても楽しいひとときだったと思います。

 そうして旅をしても、なかなか自分の考えはわかってもらえません。

 為政者にとって、人々が忠実なのはいいのですが、そのために人格者(君子)になれと言われても、煙たいだけですからね。

 だからといって「わかってくれない王が悪い」と、悪いのを王のせいにしてもしかたがありません。これが「人知らずして慍みず」です。こんな態度こそが「君子」なのだ、と言うのでしょう。

  逆に言えば、孔子は、認めてくれない王に対し「なんで?」と不満を抱かずにはいられない自分を「まだまだ君子とは言えないな」と思っていたのかもしれませんね。


故きを温めて新しきを知れば

書き下し文

子曰はく、「故きを温めて新しきを知れば、以て師為るべし。」と。

大意

 孔子はおっしゃいました。

「昔のことをよく研究し、そこから新しい知識や見解を導くことができるような人物ならば、先生として人に教える資格がある。(自分の人生の師として間違いない。)」

語釈

  • 「故」

過ぎ去った昔の事。ここでは孔子が求めた周の時代のこと。

  • 「温」

たずねる。ならう。

  • 「知新」

新しい道理や知識を見つけ出す。

  • 「師」

「師」とは、子弟を教える者。人の手本となる人。先生。

 

「故きを温め(=過去の事柄や学説などを研究し)、新しきを知る(その中に新しい意義や知識を発見する)」人が「師」としての資格をもつ、と言っている。

  • 「以て師たるべし」

(そういう人こそが)師匠になることができる。

  • 「矣」(置き字)

 

文末で意味を添える終助詞のような働きをする。断定・感嘆などを表し、語調を強める。

  • 温故知新

この言葉がもとになってできた四字熟語(故事成語)。昔の事をたずね求め(=温)て、そこから新しい知識・見解を導くこと。

解説

 故事成語「温故知新」のもとになった話。

 学校でも歴史の勉強をするのは、その教訓から学んだことを現代社会によりよく生かしていくためです。過去のことをそのまま理解するのではなく、そこから何を学び、そして、どう今に生かすかを考えることが大切です。

 そしてそれができる人物こそ、「師」と呼ばれる資格があるのだ、ということです。

 「師」は、別に生きている人物とは限りません。過去の、書物の中でしか知り得ないような人も、すべて「師」と言ってよいでしょう。

 「故」とは孔子の求めた周の知識などです。

 有職故実(ゆうそくこじつ)という言葉があります。これは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと、 またそれらを研究することです。

 昔の周の有職故実がどうだったのか、それを研究して明らかにしただけでは、現実の世の中はよくなりません。周の有職故実を、どのようにして現在の政治に生かしていくのか、それを考え、実現の方法を考えることが「新しきを知る」ということです。

 「周の知識を身につけ、それをどう生かしていくのかを考えることができて、はじめて『先生』といえるのだよ」ということですね。

 孔子もまた、いにしえの人々から学んだことを、戦乱に明け暮れる世に生かそうとしました。


学びて思はざれば則ち罔し

書き下し文

子曰はく、「学びて思はざれば則ち罔し。

思ひて学ばざれば則ち殆し。」と。

大意

孔子はおっしゃいました。

「人から学ぶばかりで、自分で考えなければ、本当に理解したことにはならない。

(それとは逆に、)一人で考えるばかりで、人から学ばなければ、(独断に陥り考えが偏るので)危険である。」

語釈

  • 「学」

 「学び手時にこれを習ふ」のところでも載せましたが、「教えを受け、教養を身につけること」を「学」と言います。つまり、教える人や書物がなくては学びにはなりません。

  • 「思」

 「思うこと」「考えること」だが、もともとは「頭で考えること」の意味がある。

  • 罔」

 くらい、おろか、無知。

  • 「殆」

 あぶない、あやぶむ。

解説

 「学」というのは、知識を得ることです。具体的には周の時代の知識です。

 学んで知識ばかり増やしても、それをどう活用するのか考えないとダメだ、と言っています。平和だった周の時代の細かな知識やしきたりをどんなに知ったとしても、それをどのように現在に生かし平和で穏やかな世の中をつくるのに役に立てるのか、それを考えなくては本質に迫ることができない、というのです。

 かと言って、平和で穏やかな世の中を作るためにどうしたらよいか、歴史から学ばずに、自分の頭の中だけで考えてもダメです。

 ひとりよがりのものになってしまって、本当に実現するものなのか、失敗したら今よりひどい状態になってしまうかも知れないからで、危険だからです。そのままの意味ですね。

 

 どんなに学校や書物から大切なことを学んだとしても、それをどう生かしていくのかを考えなければ、本当にわかっているとは言えません。また、過去の教訓から学ばずに、独りよがりの考えで行動を起こすのは危険なことです。

 

 実例は世の中にたくさんありますね。


之を知る者は

書き下し文

 子曰はく、「之を知る者は、之を好む者に如かず。

之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」と。

大意

 孔子はおっしゃいました。

「物事をよく知っているという人は、そのことを好きな人にはかなわない。また、それがいくら好 きであっても、それを楽しんでいる人にはかなわない。」

語釈

  • 「之」

指示語。ここでは物事全般を指す。

  • 「知」

知識を持つ。

  • 「如かず」

及ばない。

解説

 これもそのままの意味です。知っている<好き<楽しい、という順番ですね。

 例えばただ英語を知ってい人と、英語で話すのが好きな人では、好きな人の方が上達が速いでしょう。そして好きな人よりも、英語で話すのが楽しいという人とでは、楽しいと感ずる人の方が上達が速いに違いありません。

 テスト勉強だって、楽しんでできるようになれば、簡単に頭に入りますよ。(なかなかそううまくはいきませんけどね。無理矢理(強)がんばる(勉)のが勉強ですから…。


 孔子と儒教についてまとめました。

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