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この物語は、導入部と本編に分かれています。本編は導入部の「客」の回想です。このような物語の薦め方を半額縁構造と言います。
まず、物語導入部の「いつ」「どこ」「だれ」を考えてみましょう。
「だれ」は「私」と「客(友人)」です。
二人は喫煙していますから成人しています。また「私」は「下の子供」と言っていますから、数人の子供がます。その下の子供をきっかけに「幼い日の思い出」が語られることから、その子供は、おそらく幼稚園から小学校低学年程度でしょう。とすると「私」は30歳以上と考えても良いと思います。自然に「客」も同じくらいの年齢と考えられます。
「私」も「客」も幼年時代「ちょう集め」をしていました。
標本を「ピンの付いたまま箱の中から用心深く取り出し、羽の裏側を見た」とありますから、「客」は標本を扱い慣れていることがわかります。
そして「客」は、かつて「熱情的な収集家」であり「自分でその思い出をけがしてしまった」と言っています。これが良い思い出ではないことは「不愉快」そうに見える態度や「もう結構」と早口で言った口調からもわかります。
この「その思い出」が次段落以降で語られる物語の内容です。
導入の部分からたぶん20年くらい前の話です。
当時のこの国の教育制度は、今の日本と同じではありませんが、日本で言えば小学校の中学年くらいでしょう。翌年「十歳ぐらいになった」とあるので、小学校4~5年生の話です。
この物語は「僕」視点の物語ですから、エーミールについてはあまり好意的に描かれていません。
では実際に、エーミールはどんな人物なのでしょう。本当に「嫌な奴」だったのでしょうか。エーミールの客観的な姿と、「僕」から見たエーミールの評価とを、きちんと読み分けてみましょう。
テキストには、エーミールは「先生の息子」で、「非の打ちどころがない」「模範少年」と書いてあります。
「僕」はこの性格を「悪徳」で「子供としては二倍も気味悪い性質」と言い、「妬み、嘆賞しながら彼を憎んで」います。これは「僕」から見たエーミールの評価です。
「僕」が「立派な道具」をもっていないのと同様、エーミールのコレクションも「小さくて貧弱」ですが、「こぎれいなのと、手入れが正確な点」で「僕」も評価しています。
更に彼は破損した蝶の羽を修復する技術を持ち、蝶の標本の目利きもできるようです。
「僕」のコムラサキに20ペニヒ(約40円)という値をつけ、「展翅のしかたが悪い……」等の解説をしています。
「僕」は「足が二本欠けている」ことすら「たいしたものとは考え」ず、彼の指摘を「難癖」と言い「こっぴどい批評家」と言っています。「僕」の言う「難癖」とは、40円の価値しかないという理由の説明です。
ちなみに現在、ネットオークションではコムラサキの標本は400~500円で取引されています。しかし「僕」の持ち込んだ標本は、足が二本欠けているのをはじめ、標本として様々な欠陥がありますから、現在なら40円でも取引されるか怪しいところです。
「僕」がコムラサキをエーミールに見せたのは、家が近所だったからばかりでなく、「僕」とは経済的にほぼ同等で、出来杉君のようにその価値を理解してくれる人間だと考えたのではないでしょうか。
しかし、二人がチョウに対して求めていたものはまったく違っていました。
「僕」の「自分の獲物に対する喜び」とは、チョウを手に入れるという行為です。しかしエーミールはチョウの標本そのものの価値を求めていたのです。
「僕」にとって、チョウを手に入れたい、というのは、チョウを自分のものにしたいのではなく、「手に入れる」という行為の方が大切だったようです。
これが、エーミールのチョウを盗む行為につながってくるのです。
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