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中学1年の女子。夏美は小学校時代の友達。戸部君は小学校時代からの知り合いで現在同級生。
図書委員会所属。主人公。
小学校時代から戸部君に好意を持っているが、本人はそれに気づいていません。
中学1年の女子。「私」の小学校時代の友達。
現在はクラスが違う。
中学1年の男子。「私」は小学校時代からの知り合い。現在同級生。サッカー部所属。
「私」との関係について友達からからかわれていることから、本人も少しは「私」を意識していると思われます。
中学1年の男子。「私」の同級生。戸部君と同じサッカー部に所属。
デウス・エクス・マキナ*1)。作者の分身。
(原作:アガサ・クリスティ 制作:ITV)『名探偵ポアロ』アクロイド殺人事件は有名な叙述トリックです。
作者は「私」と戸田君は小学校時代から相当親しく「私」は戸田君に好意を寄せていることを巧妙に読者にわかりにくく書いています。
例えば、最初の教室の場面で「なんで~」と反復法を用い読者の注意をひきつけてから「なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。」と「私」に言わせています。
これ以外の「なんで~」は小学校のころの出来事ですが、この一文のみ中学入学後のことと考えられます。(小学校に部活はありませんからね。)
サッカー部員の先輩が格好よいのが仮に事実だとしても、戸部君が格好よくある必要はありません。戸部君に格好良くあってほしいという「私」の願望でしょう。
また、校庭の場面で戸田君の声を「ずっと耳になじんでいた」と慣用表現を用いて記述しています。慣用表現を表現技法と考えるかは疑問ですが、小学校時代からずっと耳になじんでいたわけですから、「私」は戸部君を相当親しく感じていたと考えて間違いないと思います。
このような「私」の気持ちを、周囲はうすうす知っていたのでしょう。だから物語の冒頭で、サッカー部の男子諸君が戸部君を「私」の方へ押しやるという行為をしたのでしょう。(「私」がいじめの対象でもない限り……。)
そして、そういう噂を立てられていることを「私」も感づいていたからこそ「わかんない」とあえてその噂そのものを否定しようとしているのではないかと思います。
このような経緯があるからこそ、校庭の場面で素直に戸部君の冗談の真意を悟って
という叙述が効いてくるのです。
それが表現技法(レトリック)です。
この文章では、主人公の「私」の気持ちを表す箇所に、表現技法が使われています。
その時の「私」の気持ちを、具体的に考えてみましょう。
例えば
などがそうです。
しかし表現技法を発見することは手段であって目的ではありません。その時の「私」の気持ちを考えることが大切なのです。
そしてこれは「『私』の気持ち」で、他の登場人物の気持ちではないことをおさえておきましょう。
この物語は主人公の目線で書かれている一人称小説です。
主人公から見た物語ですから、主人公に都合がよいように書かれています。
ところが「私」はテンパっていたので、夏実に話しかけるまで「隣の子」には気づかなかったのだと思います。
この廊下での出来事を、戸部君は見ていたのでしょうか。
教室の出入り口の幅から考えると、「私」の座席の位置にいたはずの戸部君からは、廊下で何が起こったのかほとんどわかりません。ましてや、廊下の掲示物を見るフリをしていた「私」を、戸部君は見失っているはずです。
そこで声をかけようと急いで水飲み場にやってきて、顔を洗っていたA子さんに「あたかも」のだじゃれを言います。元気のない「私」を笑わせて元気づけようとしたのでしょう。
これが「一人称小説」ではない、夏実さんや戸部君の物語だと思います。
銀木犀の花は、「私」を夏実との関係の中に閉じ込めてしまうものであり、同時に二人を守ってくれるものなのでしょう。
まるで核シェルターに閉じ込められたような描写ですね。または、固定された人間関係の中に自分の居場所を求める「仲良しグループ」の比喩ともとれます。
「私」は、夏実の関係の中に自分の居場所を見いだし、その関係を守ってくれる「お守りみたい」なものが「星の花=銀木犀の花」なのでしょう。
そしてA子さんは銀木犀の花をビニール袋に入れ、中学入学後もずっと持っています。
それから「もう九月というのに、昨日も真夏日だった。」とあるように、一年後の9月上旬が本作品の舞台です。
まだ銀木犀の花は咲いていませんから、まだ季節的に「星の花が降るころ」ではありません。
ところが最後の場面で
と、「私」は、「お守りみたい」に持っていた、干からびた「星形の花=銀木犀の花」を土の上に落とします。
ですから「星の花が降るころ」とは、最後の場面を指していると考えても良さそうです。
「星の花」とは銀木犀の花のことであり、夏実との関係によって自分が安心できる場所の象徴です。
ところが中学入学以降、夏実との関係には変化が起こり、「星の花」も「小さく縮んで、もう色がすっかりあせて」しまいます。
そして公園のおばさんの言葉をきっかけに、A子さんは「星の花」を土に返します。夏実との関係の中に自分の居場所という気持ちを捨ててしまったのです。
これは、核シェルターのような「銀木犀の木の下をくぐって出た」というA子さんの言葉に象徴されます。
「星の花が降るころに」とは、作品終末部の「(自分の安心できる居場所=夏実との関係)を捨てたころ」のことを指しているのです。
ですからこの題名から、
と読み取ることができます。
戸部君にとって“私”は少しは気になる存在だったかも知れませんが、好きだったかどうかはテキストからは読み取れません。問題なのは、戸部君以上に、“私”は戸部君をずっと意識していた、ということです。
“私”は戸部君に「見られている」ことを意識していますが、逆に言うと“私”はいつも戸部君を見ていたことを示しています。
具体的に考えてみましょう。
“私”が夏美に話しかけようとする場面ですが、教室内の“私”の座席は、サッカー部の面々がじゃれあっても給食当番の配膳の邪魔にならなかった場所です。ですから少なくとも教室入り口付近ではありません。おそらく教室の真ん中よりも後ろの窓際のあたりではないでしょうか。(アニメやラノベの主人公の定番の位置ですね。)
“私”はその席から廊下へ、そして廊下の窓へと移動しますが、“私”の立っている場所は、教室の中から見える1mくらいの範囲のでしかありません。その狭い範囲の中にいる“私”が何をしているのか、戸部君はわかるでしょうか。
戸部君が“私”の方をずっと見続けていたのならわかったかもしれません。しかしサッカー部の友達に取り囲まれていた戸部君は、そんなことできたでしょうか。“私”は戸部君を意識していたからこそ、「戸部君に見られた」と思い込み、どう見られたかが気になったのでしょう。
実は、“私”は戸部君をずっと意識し続けていたことは、彼女自身が告白しています。
なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。
というセリフです。
ここでは作者は「なんで~」と反復法を用い、読者の目を引きヒントを与えています。
それまでの「なんで~」は小学校のころの出来事です。しかし小学校には部活はありません。この一文は中学入学後のことです。
“私”はなぜこう考えたのでしょう。「サッカー部=格好よくなくてはいけない」と考えているのでしょうか。また“私”の学校のサッカー部員の2~3年生はみんなイケメンで、戸部君だけ残念なのでしょうか。これは、戸部君が「格好よい」存在であってほしい、という“私”の願望の表現なのだと思います。ひょっとしたら小学校の頃から“私”にとって戸部君は気になる存在だったのでしょうね。
だから午後の校庭の場面では、戸部君のサッカーボールのセリフを思いだし(この時“私”と戸部君は何を話していたのかな?部活中にボール磨きしている男子生徒に「何やってんの?」とか聞いたのかな?部活してるサッカー部員に、いくら部活に入っていないからって、そんなこと話しかけるっておかしいでしょ。話しかけたかったんだよね。)「あたかも」がらみのくだらない冗談をすんなりと自分に都合良い解釈で受け止めることができたんですね。(普通だったら「ハァ?何言ってんの?私の気も知らないで…バッカじゃない?」とつっこむところでしょう。)
メタファーとは隠喩のことです。
題名にある「星の花」とは銀木犀の花のことでしょうか。また「星の花」とは、何の比喩(メタファー)なのでしょうか。
物語冒頭で“私”は、銀木犀の木がバリア(エヴァンゲリオンのA.T.フィールド)の役割を持っているように考えています。そして文章をよく読むと、このバリアを構成しているのは銀木犀の花だということがわかります。しかし終末部で再びこの銀木犀の木の下に入ってみると、花は既になく、木漏れ日が「星みたいに光って」いました。そしてお守りとして所持していたバリアの構成要素であった銀木犀の花も「小さく縮んで、もう色がすっかりあせて」おり、“私”はバリアの領域から一歩踏み出します。
この「星の花」は何のたとえなのでしょうか。
さまざまな解釈のしかたがあると思いますが、「星の花」を主題のメタファーと考え、キーワードを「成長」と仮定すると、次のような解釈が可能でしょう。
もし「人間関係」だとすると、無貌のおばさんの「どんどん古い葉っぱを落っことして、その代わりに新しい葉っぱを生やすんだよ」というセリフは「古い人間関係をどんどん捨てて、新しい人間関係を構築していきましょう」という身も蓋もない内容となります。この解釈もアリですが、やはり教科書ですので、「古い自分をすてて、新しい自分をつくっていきましょう」というふうに解釈するのが自然です。
ですから、この物語の主題は「自己発見」であり、「星の花」は(銀木犀の花と木漏れ日の星とあわせて)自我のメタファーと考えます。
そう言えば、エヴァのA.T.フィールドの正体は「ヒトの持つ心の壁」だそうですね。“私”は心の壁を銀木犀の木の範囲からぐっと宇宙レベルにまで広げたんですね。(A.T.フィールドをなくしてしまうと、液化してしまうそうですから、みなさんはなくさないでくださいね。)
原作には続きも、続きと目される作品もありません。ですから二次創作となりますから、コミケでよくある同人誌みたいに、何を書いても構わないはずです。しかし、学校の課題として出されるものですから、ある程度真面目にやらないとまずいと思います。この物語の主題は「自己発見」という心の成長であると考えられますので、続きは「自己実現」の状態を創作すれば問題ないと思います。
「自己実現」とは、自己の内面的欲求を社会生活において実現すること、と言われています。
少し解説します。これは、アメリカの心理学者 A.マズローが考えた欲求5段階説に基づいています。人間には下位から順に生理的欲求,安全への欲求,社会的欲求,自尊欲求,自己実現欲求があり,下位の欲求が充足されると,より上位の欲求が人間の行動動機となるとしたものです。自己実現欲求は,人間の物質的欲求が充足されたあとに発現する欲求で、豊かな社会においては,この自己実現欲求が人間の重要な行動動機であると考えられています。またマルクスは、「ある対象に働きかけ,それを獲得しながら,人間としての豊かな自己の能力や個性を実現させていこうとするもの。」と考えました。
主人公は、夏美との関係がうまくいっていないと感じ、物語の中盤でシカトされたと感じたショックで心神喪失状態になります。これは社会的欲求・自尊欲求が満たされていない状態です。その後、戸部君とのやりとりの中で、(実は戸部君が昔から好きだった、という自分の気持ちを含めた)自分の現在の状態に気づきます。これが、自己発見です。そして過去にこだわるのではなく未来に向かって生きていかなければならないことを悟ります。ですから、主人公が未来に向かって「自分らしく」行動する姿を書けばいいのです。
まず、主人公の「私」は「図書委員」で、副主人公の戸部君は「サッカー部」というテンプレのキャラクター設定を持っています。そして主人公は「自分は昔から戸部君が好きだったんだ」ということに気づきます。内気なツンデレを主人公にしたラノベができますね。課題としての字数はさほど多くないはずですので、内気なツンデレの図書委員の女の子がどうやって活発なサッカー部の男の子にコクるか、が語られればオッケーです。ポイントは、どんなイベントを発生させるかです。工夫しましょう。
気をつけたいのは夏美と銀木犀の扱いです。いずれも過去の象徴で、本編で回収済みの内容ですから、更にこれを絡ませようとすると、長文になります。注意しましょう。
アクロバット的な方法として、最後の場面を戸部君視点で描き直し、本編にはない「実は僕(戸部君)も“私”のことが好きだった」という設定を加えると、戸部君主導でイベントを発生させることが出来ると思います。
イベントとしては、“私”サイドなら図書委員がらみの文化祭の準備、戸部君サイドなら部活の新人戦あたりが「ありがち」な設定でしょう。
こういう課題は、真剣に考えるより、手っ取り早くすませることを考えた方がいいですよ。