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詩の世界

てがみ 寺山修司

 

つきよのうみに

いちまいの

てがみをながして

やりました

 

つきのひかりに

てらされて

てがみはあおく

なるでしょう

 

ひとがさかなと

よぶものは

みんなだれかの

てがみです

 この詩は、7音と5音の組み合わせで書かれた口語定型詩です。連は全部で3つです。

 すべて平仮名で書かれていて、とてもやわらかで優しい感じがしますね。

 月夜の晩に、作者は1枚の手紙を海に流しました。その手紙は月の光に照らされて青くなるでしょう、と作者はイメージをふくらませます。そして魚はみんな誰かの手紙が変わったものだ、と言っています。

 月の光や、海や魚の、青白いイメージがふくらみます。

 どういう意味でしょう。

 手紙というものは、自分の考えや思いを誰かに伝えるために書くものです。普通はポストに入れますが、作者は海に流してしまいます。

 いずれにせよ、作者には誰かに伝えたい思いがあったに違いありません。しかしそれを、相手に伝えずに海に流してしまいます。なぜでしょう。

 考えられる理由は2つあります。一つ目は伝える相手はわかっているが、伝えられないからからです。二つ目は伝える相手が誰なのかわからないからです。

 一つ目は、例えば相手が死んでしまったとか、言いたいことはあるんだけどどうしてもいいづらいとか、いろいろな理由があると思います。二つ目は、例えば手紙をビンに入れて海に流す、というようなものでしょうか。

 手紙というのはコミュニケーションの手段です。コミュニケーションというのは、発信したい思いがあっただけでは成立しません。必ずそれを受信してくれる人がいなくてはいけないのです。

 どんな理由だったかはわかりませんが、作者は何か伝えたい思いがあって、それを誰かに伝えることができずに、その思いを海に流してしまったのでしょう。そのような「伝えることができなかった思い」は作者だけが抱いた思いではありません。きっとたくさんの人が「伝えることができなかった思い」を海に流したことでしょう。その「思い」は青い魚になって、いまもたくさん海の中をさまよっている、というような意味なのではないでしょうか。

つきよのうみに/いちまいの/てがみをながして/やりました

いつか どこかで/ともだちの/いない こどもが/よむように

つきの ひかりに/てらされて/てがみは あおく/なるでしょう

ひとが さかなと/よぶ ものは/みんな だれかの/てがみです

 

 これは講談社の絵本(昭和34年発行)に作者が載せた「さかな」という詩です。作者はこの2行目を削除しました。

 2行目から、この手紙は「ともだちの/いない こども」にあてた手紙だったことがわかります。宛先不明のパターンですね。

 いまは「友だちのいない子どもにあてた手紙」というと、励ましの内容がすぐに思い浮かびますが、違うような気がします。

 どんな内容だったか考えてみるのも面白いでしょう。しかし、いずれにせよ、作者は「この2行があってはいけない」と判断して削除したのです。解釈は教科書に載っている内容だけで勝負しましょう。


太陽 八木重吉

太陽をひとつふところへいれていたい

てのひらへのせてみたり

ころがしてみたり

腹がたったら投げつけたりしたい

まるくなって

あかくなって落ちてゆくのをみていたら

太陽がひとつほしくなった

 この詩は、口語自由詩です。

 「あかくなって落ちていく」太陽をみているのですから、日が沈むころでしょう。おそらく海辺だと思います。(日本では地平線に日が沈む景色は珍しい。)

 作者は海岸に立って、沈む夕日を眺めています。太陽の方に手を伸ばしました。そう…ちょうど太陽が手のひらにのっかっているように見える高さで。

 手を動かすと、太陽がころがっているように見えます。つかんで投げつけることもできそうです。ふところに入れておいたら、いろんなことができそうです。太陽がひとつ欲しいな、と思う作者です。

 ポイントは「腹がたったら投げつけたりしたい」というところです。作者は何か腹がたつことがあったのでしょうか。しかし腹が立ったからといって、すぐに相手に物を投げつけることはもちろん、言い返したり喧嘩したりすることができません。じっと我慢することだってあります。「もし、思ったことをはっきり相手にいえたら…」そんな強い心が欲しいですね。

 太陽は、「自分の思いをはっきり伝えることができる強い心」の象徴なのではないでしょうか。そんな心をいつも持っていたい比喩として「太陽をひとつふところに入れていたい」と言っているような気がします。


空と魚 木坂涼

急降下。

鳥が

翼で

海を打つ。

 

鳥は

もう掴んでいる。

波は

海のやぶれ目を

ごまかしている。

 

魚は

海を脱けでる。

初めて そして

たった一度だけ。

 

空の高みで

もうひとつの空へ

のまれる。

 この詩は、口語自由詩です。詩としては珍しく「句点(。)」が打ってあります。句点にしたがって改行すると、次のような文章になります。また、第三連は倒置法ですから、これも通常の文に直してみましょう。

 急降下。

 鳥が翼で海を打つ。

 鳥はもう掴んでいる。

 波は海のやぶれ目をごまかしている。

 初めてそしてたった一度だけ/魚は海を脱けでる。

 空の高みでもうひとつの空へのまれる。

 海鳥が、海中の魚をねらって海に潜り、魚が一瞬で捕まって空の彼方へ飛び去っていった様子が生き生きと描かれていますね。最後の行以外は、とても写実的な表現です。

 では最後の「空の高みでもう一つの空へのまれる」とは、どういうことでしょうか。ポイントは「もう一つの空」とは何か、ということでしょう。

 小6の教科書の宮澤賢治作「やまなし」の話は、みなさんご存じだと思います。この作品の最初の「クランポン」が出てくる場面で描かれていたのは、食物連鎖の話です。法華経に傾倒し菜食主義者だった作者は、クランポン(プランクトン?)が魚に食べられ、魚がかわせみに食べられてしまう…その哀しさ、恐ろしさをカニの兄弟の目を通して描こうとしていたのではないかと思います。一方この詩の作者は、ただ魚が鳥に連れて行かれた、ということではなく、命の鎖としての食物連鎖の風景を描きたかったのでしょうか。

「魚」は何と読むか

 「魚」は「さかな」と「うお」の二通りの読み方があります。この詩は「うお」と読ませています。なぜ「さかな」とは読まないのでしょう。

 「うお」とは、水中をすみかとしている生き物のことを言います。一方「さかな」は、食べものとしての「うお」です。
 「うお」という言い方はたいへん古く、万葉集の時代から水の中の生き物を指すことばとして使われていました。一方「さかな」は「酒菜(さかな)」と書いて、お酒のおつまみを意味していました。ですから、奈良時代から室町時代にかけて「さかな」と言うと、「塩」「スモモ」「味噌」などを指しました。そして江戸時代以降、酒の肴(さかな)に魚肉が多く使われたため、魚肉を「さかな」と呼ぶようになったのです。ちなみに、
その酒菜(さかな)のうち、魚や肉のような動物性食品を「真菜(まな)」と呼び、野菜のような植物性食品を「疏菜(そな)」と呼んでいました。その真菜(まな)を料理する板を「真菜板」と呼ぶようになったそうです。
 ですから、故事成語の「水を得た魚」は「水を得たウオ」と読むのが正しいのです。

 もし作者が、魚が鳥の餌になったことを表現しようとしたのだとしたら「サカナ」と読んでもよいと思います。しかしこの詩の題名は「空と魚」です。魚は「海を抜けで」て、「空の高みでもう一つの空にのまれ」ていきます。魚は高い高いところへ行ってしまった詩なのですから、ここは永遠の命を暗示できるように「ウオ」と読むのが適切であると思います。


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