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この詩の作者は、工藤直子さんです。工藤さんと言えば、
よが あけました。
あさの ひかりを あびて、
竹やぶの 竹の はっぱが、
「さむかったね。」
「うん、さむかったね。」
と ささやいています。
雪が まだ すこし のこっていて、
あたりは しんと しています。
の、小学校1年生で学習した「ふきのとう」の作者です。
中学最初の学習として、文学的文章の読み方の基本を学びましょう。
「ふきのとう」は「いつ・どこ・誰」の話だったでしょう。早春の朝、竹藪に出てきたふきのとうの話ですね。
文章は、何かを説明する文章と、「おはなし」とに分かれています。「おはなし」は「文学」と言います。詩は文学の仲間です。
中学最初の学習として、文学的文章の読み方の基本を学びましょう。
文学的文章を読むときは、まず「いつ」「どこで」「だれが」「何をしたのか」、そしてその時の「登場人物の気持ち」をはっきりさせて読むことが基本です。そしてこの「登場人物の気持ち」を文できちんと説明できるようになりましょう。
ひかりを おでこに
くっつけて
はなひらく ひを
ゆめにみて
たんぽぽわたげが
まいあがります
とんでいこう どこまでも
あした
たくさんの「こんにちは」に
であうために
文章には段落があります。段落の切れ目の目印は、改行して最初の一字を下げてあるところです。
詩の、段落にあたるものは「連(れん)」といいます。切れ目の目印は、一行空いているところです。ですから、この詩は2連に分かれています。
いつ、どこで、だれが、何をしているか、わかりますか? そしてそれがなぜ言えるのか、きちんと言葉で説明してみましょう。
この詩の語り手は、写真のような、綿毛をつけたタンポポです。タンポポが綿毛をとばすのは春です。「ひかりを おでこに/くっつけて」という表現は、綿毛が日光に照らされた状態をたとえているので、昼間でしょう。
「わたげが/まいあがります」とあるので、綿毛が舞い上がるくらいのそよ風が吹いています。
当然、タンポポが生えているところが舞台です。この詩の単元名は「野原はうたう」ですから、野原ですね。
ちなみに、この詩は『のはらうた』という詩集に載っています。どこの図書館にも置いてありますから、探してみましょう。
この詩は第1連で「タンポポが、昼間、野原で風をうけて、綿毛が舞い上がらせている」状態を表現しているのです。
実際に光はどこかにくっつくことはありません。「ひかりを おでこに/くっつけて」は「比喩」という「表現技法」です。表現技法は、レトリックともいい、文章のお化粧のようなものです。
作者は、読者の目をひくためにレトリックを使って文章にお化粧をほどこします。つまりレトリックが使われているところは、読者に印象づけたかったところなのです。
「ひかりを おでこに/くっつけて」という表現によって作者は、明るい天気の良い昼間であることや、綿毛の一つ一つが光り輝いている様子、暖かさや楽しさのようなものまで生き生きと読者に連想させようとしているのです。
これからの文学的文章の学習にはレトリックがたくさん出てきます。読解の大切なヒントになりますから、その種類をしっかり覚え、出てきたことにすぐ気づくようにしていきましょう。
綿毛を舞い上がらせているたんぽぽは、何を考えているのでしょう。
国語の答えのヒントは必ず文章の中にあります。どの部分が解答のヒントになっているでしょう。
第1連に「はなくらく ひを/ゆめにみて」とあります。
たんぽぽは、綿毛についている種が地面に落ちて、芽が出て花が咲く日を思い描きながらタンポポは綿毛を舞い上がらせているのです。ゆめみているのですから、綿毛がいつか花開くことを希望していることがわかります。
では、何を願って花が咲く日を夢見て綿毛を飛ばしているのでしょう。
これを解決してくれるのが第2連です。
とんでいこう どこまでも
あした
たくさんの「こんにちは」に
であうために
第2連は言葉の順序が普通ではありません。普通の順序に並べかえると、次のようになります。
これはレトリックで「倒置法」といいます。倒置法では、一番最初にくる言葉が、一番言いたい言葉です。
タンポポの綿毛は「たくさんの『こんにちは』に/であうため」に「どこまでも/とんでいこう」としているのです。
「たくさんの『こんにちは』」とは、たくさんの人と出会うことの比喩です。
ですから、タンポポ(の綿毛)の気持ちは「たくさんの人との出会いをするために、どこまでも飛んで行きたいという願い(気持ち)」となります。
主人公であるタンポポの名前「たんぽぽ はるか」の「はるか」は、はるか遠くまで綿毛を飛ばして、その土地でたくさんの人との出会いをしたいという願いのあらわれなのでしょう。
おれはかまきり かまきりりゅうじ
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ
おう あついぜ
おれは がんばるぜ
もえる ひをあびて
かまを ふりかざす すがた
わくわくするほど
きまってるぜ
主人公はカマキリ、季節は夏。「あつい」「もえる ひを あびて」とあるので、正午過ぎでしょう。場所は同じく野原です。
この詩の特徴は、対句ではありませんが、第1連と第2連が対応しています。「おう なつだぜ/おれは げんきだぜ」に対して「おう あついぜ/おれは がんばるぜ」、「どきどきするほど/ひかってるぜ」に対して「わくわくするほど/きまってるぜ」がそうです。
かまきりは、なぜ「あまり ちかよるな」というのでしょう。
国語の問題では、まず問題になっている部分近くから答えを探します。次の行「おれの こころも かまも/どきどきするほど/ひかってるぜ」とあります。
「どきどき」というのは、心臓の鼓動が激しくなる様子を表す擬態語で、レトリックでは擬態法と言います。心臓の鼓動が速くなるのは、運動した後とか興奮した時、不安や恐怖、期待をした時です。自分のカマを「ひかってる」くらいに鋭いと言っていますから、切られたら怖いと思うようすを表しています。
鋭くとがっているのはカマばかりではありません。「こころも かまも」と言っていますから、カマと同じように、心も何かあるとすぐにキレてしまう、とても攻撃的でアブナイ精神状態であると言っています。
「自分は攻撃的で、近づく人を鎌で切ってしまうようなキレやすい危ない性格だから、近づくとアブナイよ」と呼びかけているのですね。
では第2連の「わくわくするほど/きまってるぜ」というのはどういう気持ちの表れでしょう。
「わくわく」は、中から外へ激しく動いて現れる意味の「湧く(沸く)」から生まれたことばで、期待・喜びなどで心が弾み、落ち着かないさまを表す擬態語です。そして「どきどき」とは違い、不安や恐怖、激しくなる鼓動を表す際には使いません。ですからカマキリは、何かを期待し、心が弾み、落ち着かない気持ちでいます。
「きまっている」というのは、素敵な人を褒めるときの表現です。「かまを ふりかざす すがた」が「カッコイイ」ということですね。「がんばっている自分の姿はとてもかっこいいだろう!」と読者に呼びかけているのです。
夏の暑い日差しを浴びて[「おれは げんきだぜ」「おれは がんばるぜ」と張り切るカマキリの姿が浮かびますね。
主人公の名前「かまきり りゅうじ」の「りゅう」は想像上の動物である龍からつけられているのでしょう。龍は他の生物を圧倒する力強い存在です。これにあやかった名前なのでしょうか。
「あついぜ」はカマキリ君の心なのかもしれませんね。
このように、自分をカッコイイと言っているカマキリ君の特徴は、その口調にあります。
話し言葉の最後に「~なのじゃ」とつけて話しをしてみましょう。まるで年寄りの博士のようですね。見た目が幼い女の子がそれをすると「のじゃロリ」というキャラクターになります。
話し言葉は、話し手の性格などを読み取る大きな手がかりになります。
「あしたこそ」「おれは かまきり」「あきのひ」「いのち」の四編の詩の、それぞれの主人公の話し言葉(口語)の語尾に注目してみましょう。
「たんぽぽ はるか」と「のぎく みちこ」は「~です・~ます」という敬体(です・ます調)で、聞き手に対してていねいな言い方をしています。それに対して「けやき だいさく」は「~である」という常体(だ・である調)です。同じ常体ですが、「かまきり りゅうじ」は「~だぜ」です。
それぞれ、どんな性格をあらわしているのでしょう。考えて声に出して読んでみましょう。
また「~ぜ」のように、同じ音を繰り返す技法を押韻(おういん)と呼びます。
一定のリズムを生み出しますね。
更に押韻以外の行は、命令をする言い方(命令形)や名詞で言い切る言い方(体言止め)が使われていて、詩全体として非常に力強い印象を受けます。
小説や詩など文学的文章は、修辞法(レトリック・表現技法)に着目すると、より簡単に理解することができるようになります。
修辞法については、こちらにまとめておきましたので、あわせてご覧ください。
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「野原はうたう」は、小学校の時に習った「ふきのとう」の作者、工藤直子さんの詩集です。たぶん、どこの学校の図書館にも置いてあると思います。
ここでは、教科書に載っている作品を解説しました。
「野原はうたう」は、何冊にも分かれていて、とてもたくさんの詩が載っています。ですから、すべてを解説することはできません。
どうしても知りたい詩があったら、お知らせ下さい。いっしょに考えましょう。
ここから後は、以前の教科書に載っていた作品です。
ひょっとしたら、応用問題として定期テストに出るかもしれません。
興味のある人は、読んでみて下さい。
あきのひ のぎくみちこ
かぜが
とおりすぎました
わたしは はなびらを
ゆすりました
だれかに よばれたきがして
ふりかえると
ゆうひが くるくると
しずむところでした
主人公は野菊。写真のような、夕日が沈む頃の野原が舞台です。
「かぜが/とおりすぎました/わたしは はなびらを/ゆすりました」は、野菊の花びらが風に吹かれてそよそよとゆれている情景が描かれています。
AとBとでは、どう違うのでしょう。また、この違いにどのような意味があるのでしょう。
Aの場合、花びらを揺すったのは「わたし」です。しかしBの場合、花びらを揺すったのは風だという意味になります。
詩は「わたしは はなびらを/ゆすりました」とあるので、野菊は風に吹かれたからではなく、自分から進んで花びらを揺すった、という意味になります。
なぜ野菊は自分から花びらを揺すったのでしょう。
次に「だれかに よばれたきがして/ふりかえると」とあります。
ここから野菊は、誰かに後ろから呼ばれたと思ったのです。振り返ると目に入ったのは夕日です。野菊は夕日に呼ばれたと感じたことがわかります。
では、野菊は夕日に何と呼びかけられたのでしょう。
「ゆうひが くるくると/しずむところでした」とあります。
「くるくる」は丸くて愛らしいさまをあらわしたり、軽く回るようすを表現する擬態語です。
夕日が回転しながら地平線に沈むはずはありません。野菊は夕日に何を感じたのでしょう。
実際に、手をくるくる動かしながら、夕日が沈む様子を表現してみましょう。
手のひらを外に向けて、くるくる回しながら下の方に動かすのではないでしょうか。
この手のひらを外に向けてくるくる動かす動作は、バイバイ、とさよならの挨拶をする仕草にも見えます。
野菊は、夕日が自分にさよならの挨拶をしているように感じたのではないかと思います。
この仮説をもとにすると、最初の「はなびらを ゆすりました」という表現もさよならの挨拶と解釈することができます。
この詩は、お互いがさよならを交わし合う、穏やかな秋の夕暮れの情景を描いているのではないでしょうか。
いのち けやきだいさく
わしの しんぞうは
たくさんの
ことりたちである
ふところに だいて
とても あたたかいのである
だから わしは
いつまでも
いきていくのである
だから わしは
いつまでも
いきていて よいのである
ケヤキの木に、小鳥がたくさん止まっている情景です。
小鳥の数は「たくさんの」とありますから、一匹や二匹ではありません。「ふところに だいて/とても あたたかい」くらいの数です。ぎっしりとケヤキの木に止まっているのでしょう。
樹木や電柱などにたくさん止まる小鳥といえば、ムクドリが有名です。ムクドリは繁殖が終わった秋から冬にかけて集まります。また、寒さをしのいだり、敵から身を守るために夜にあつまります。
ですから、冬の夜の詩ということがわかります。
ケヤキは落葉樹ですから、葉がすっかり落ちたケヤキの木に、ぎっしりと小鳥が集まって休んでいるのです。たくさんの小鳥たちが羽を休めることができるのですから、きっと大きなケヤキの木に違いありません。
「私の心臓は/たくさんの小鳥たちである」というのはもちろん比喩です。「小鳥たち」を、命のもとである「心臓」に例えているのです。まるで骨だけになったようなケヤキの木の「命のもと」がたくさんの小鳥たちだ、といっているのです。
「ふところに だいて/とても あたたかいのである」ことから、ぎっしり集まっている小鳥たちを、ケヤキはとても暖かく感じていることがわかります。
ほとんど同じ言葉の繰り返しですから反復法です。
「だから」というのは、「いきていく」「いきていて よい」理由を説明するつなぎ言葉(接続詞)です。なぜ反復法を使い強調したのでしょう。
「きのうは熱が出た。だから宿題ができなかった。」というように、「だから」の前に理由を説明する内容が、後にその結果が書かれます。ですから「いきていく」「いきていて よい」理由は「わしの しんぞうは/たくさんの/ことりたち」で「ふところに だいて/とても あたたかい」からです。
しかし、小鳥たちが自分の心臓のようなものならば、次のように言うはずです。
この「いきていくことが できるのである」と「いきていくのである」「いきていて よいのである」の三つは、どのような違いがあるのでしょう。
ケヤキにとって小鳥たちは「わしの しんぞう」なので、小鳥たちがいるから「いきていくことが でき」ます。
一方、小鳥にとってケヤキは、寒い冬を越すための大切なねぐらです。大きなケヤキの木のおかげで冬越しができるのでしょう。
ケヤキはそのことを知っています。小鳥たちの暖かさを自分の命と感ずるとともに、小鳥たちを守っていこうと決意し、そのことに誇りをもっているのが「いきていくのである」「いきていて よいのである」という言葉に表れているのではないでしょうか。
「小鳥たちを守り、共に生きることを喜び、そのことに生きがいを感じている」というのが、主人公のケヤキの気持ちです。
「いきていくことが できる」だけでも、その気持ちを込めることができないわけではありません。
しかし前半の「わしの しんぞうは/たくさんの/ことりたちである」のつながりを考えると、小鳥のおかげで生きていくという意味が強くなってしまいます。
小鳥と共生していて、そのことに自信と誇りをもっているケヤキの気持ちを強調するために反復法を使ったのだと思います。
作品から、はっきり分かっている季節と時間帯は、次の通りです。
あしたこそ 春 日中
おれはかまきり 夏 正午頃
あきのひ 秋 夕方
いのち 晩秋~冬 夜
きれいに順序よく並んでいます。光村図書の意図を感じさせます。とすると「いのち」は冬、「あしたこそ」は午前中(春の朝は朝露がある可能性が高いので、綿毛は飛びません。)と解釈するのが適当かも知れません。
? (木曜日, 25 4月 2024 17:33)
野原はうたうを載せてほしいです