故郷


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「故郷」の時代

中国の時代背景

「眠れる獅子」から「死せる豚」へ…混乱の幕開け

 日本が「太平の夢」をむさぼっていた江戸時代、清は「三世の春」と呼ばれる黄金時代を迎えていました。

 一方、18世紀のヨーロッパは革命の世紀でした。

 イギリスの清教徒革命(1640)や名誉革命(1688)、フランスのフランス革命(1789-1799)、アメリカの独立(1776)といった市民革命の世紀であり、 綿工業に代表される工場制機械工業による大量生産と、蒸気機関の発明による動力革命・交通革命を軸とした産業革命の時代だったのです。

 これは同時に、民主主義と資本主義の時代の訪れでした。

 産業革命による大量生産は、大量に原料を必要とします。そして大量に生産された製品は売りさばかなくてはいけません。

 そこでヨーロッパの列強は、それを植民地に求め、世界に侵出していきました。

 19世紀になると、イギリスは中国から茶を輸入する代わりに、既に植民地化したインドへ綿織物を、インドから中国へ麻薬のアヘンを輸出するという三角貿易を始めます。

 これがもとで、中国(清)とイギリスとの間でアヘン戦争(1840-42)が起こりますが、同時に清は列強の侵出の脅威にさらされます。

 更に国内では太平天国の乱(1851-64)などの乱が勃発して「内憂外患」の状態となりました。

 この流れの中で、日本にも海外列強が訪れ、不平等条約を結び、明治維新を迎えます。

 明治維新により誕生した明治政府は、富国強兵政策により急速に近代化(資本主義化)を進め、列強に並ぼうと日清戦争(1894-1895)を起こすのです。

 清にとって日清戦争による敗北は、「眠れる獅子」とそれまで言われてきた清の弱さを世界に露見した形になり、以後欧米列強によっていいように食い荒らされるようになりました。

 清国内では日本のような近代化を進める改革が行われましたが、かえって人々の反感を買うようになりました。

 そして、1911年に武昌で起こった蜂起をきっかけに辛亥革命がおこり、宣統帝溥儀は退位して清は滅亡、秦の始皇帝以来の皇帝による統治も終止符が打たれました。

その頃日本は

 大正時代が舞台の物語は、アニメやマンガなどなどたくさんあります。スチームパンクと言われるSF物もこの時代をイメージしています。

 大正時代(1912.7-1926.12)とはどんな時代だったのでしょう。

大正ロマン

 大衆文化が花開いたのが大正時代です。

 シャンプーが発売され、洋装が広まり、洋装・短髪の女性たちは職業婦人として社会へ進出しました。

 また洋食が一般化したのもこの頃です。森永製菓の「ミルクキャラメル」(1914森永製菓)や「カルピス」(1919アサヒ飲料)「キューピーマヨネーズ」(1925キューピー)が発売されたのもこの時代です。

 絵画やデザインでも新しい流行が生まれ、キネマ(無声映画)が流行しました。レコードの普及によって「カチューシャの唄」などの流行歌が登場。宝塚歌劇団も設立されました。

 また芸術性豊かな童話・童謡が創り出され、「蜘蛛の糸」の芥川龍之介や「一房の葡萄」の有島武郎、「ごんぎつね」の新美南吉らが活躍しました。

大正デモクラシー

 大日本帝国憲法にのっとって民意を反映しようと政党政治への動きが活発になりました。

 そして1925年には普通選挙法が成立。25歳以上の男子であれば無条件で政治参加ができるようになりました。

戦争と不況と災害

 大正3(1914)に始まった第一次世界大戦は世界的な品不足をもたらし、貿易を積極的に行った日本は好景気になりました。

 しかし戦後一転して大不況となり物価が急上昇。中小企業の多くが倒産する一方、財閥に利益が集中しました。更に関東大震災(1923)により首都東京が壊滅。不況に追い打ちをかけました。

 普通選挙法と同時に「アメとムチ」として治安維持法が成立しました。更に内外の恐慌が日本を襲い、政党政治は財閥と癒着していきました。

 そして大正期に完成した協調外交は限界を迎え、軍部主導による政治に変わります。その結果、経済的に立ち直るべく、日本は活路を海外に求め、戦争の時代に突入していったのです。

その頃魯迅は

「故郷」の時代

 辛亥革命により、孫文(写真)は国民党を結成して中国の国会の第一党となり、明治維新や自由民権運動のような新しい国「中華民国」(「中華人民共和国」ではありません。今の台湾政府ですね。)によって民主政治を推し進めようとしました。

 しかし清で内閣総理大臣を務めていた袁世凱が水面下で工作を行って独裁色を強め、それに反対する孫文らの革命勢力を退け、孫文を日本への亡命に追い込んだのです。

 このような腐敗した政治状況は、革新的知識人層を失望させ、彼らに文学的な啓蒙運動を行わせるきっかけとなりました。
 これは「文学革命」と呼ばれ、腐りきった中国の状況を一般庶民に自覚させるべく、誰でも読めるように従来の文語ではなく口語で訴えました。この文学革命のの中心人物としては、『新青年』を発行した陳独秀や白話(話し言葉)文学を提唱した胡適などといった人たちがいたましたが、その中に魯迅もいました。

「故郷」と魯迅

 当時魯迅は、現在の東北大学医学部で藤野巌九郎教授のもとで留学生として学んでいました。清の風俗である「纏足(ヤンおばさんの足です)」を医学の力で直そうと考えていた、と言われています。

 ところが大学で、銃殺される同胞を笑ってみている中国人の映像を見、本国の惨状を聞いて、「医者として中国人を治そうにも、治せるのは体だけであり、中国が列強から自立するためには中国人の精神を治さなくてはならない」と思い、文学の道に転じたとされています。(単位がとれず卒業の見込みがなかった、という説もあります。意見には個人差があります。)

 『故郷』を書いた1921年は、独裁者として君臨していた袁世凱は既に亡く、各地に軍閥と呼ばれる軍人勢力がごった返す混乱状態にありましたた。その影響は庶民の暮らしにも影響を与え、人の心さえも変えてしまっていたのです。

 『故郷』の叙述では、「豆腐屋小町」と呼ばれたヤンおばさんは外面・内面ともにかつての面影はなく、実の兄弟のように親しかったルントウも変わり果てて、地主階級と小作人という身分の壁によって接し方も異なるものになってしまったと書かれています。

 魯迅は『故郷』の中で、変わり果てた故郷や人々を見て悲哀かみしめつつも、「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」と文末で述べ、一条ばかりの希望を失わない決意をしたのではないでしょうか。 

その後の中国

  では、「故郷」のホンルやシュイションはどういう時代を過ごすことになるのでしょう。

 その二度に亘るロシア革命で台頭したボリシェヴィキ(ロシア共産党)の指導によって、魯迅とともに文学革命をリードした陳独秀が中国共産党を結成します。この結果、蒋介石率いる「国民党」と毛沢東率いる「中華ソビエト共和国」の二つの勢力が、中国に並び立つこととなりました。

 最初、この二大勢力は互いに争い、中国は内乱状態となりました。しかし1937年7月7日に盧溝橋事件が起こり、1カ月後には日本により上海まで占領されたため、国民党と中国共産党は手を結んで日本との全面戦争へと突入したのです(日中戦争)。

  しかし、1945年に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をすると、再び国共内戦(国民党vs共産党の内戦)に突入します。この中で農民が「内戦は地主への戦い」とみなして共産党軍(のちの人民解放軍=中国軍)に参加するようになり、共産党軍が優勢になります。そして1949年10月1日に毛沢東が「中華人民共和国」の建国を宣言し、分裂状態に一応のピリオドが打たれました。そして敗れた国民党は台湾に逃れ、未だ共産党政府とは対立状態にあることはご存じの通りです。

 そして現在、「統一」された中国は高度経済成長を迎え、世界第二位の大国となりました。しかし、この中で貧富の差が一層広がっています。 

 中国の若者は1989年、民主政治の実現を起こそうと魯迅たちと同じように、「天安門事件」という形でアクションを起こしました。しかし、結果はご存じの通りです。時代や状況は違いますが、どこかそれは『故郷』の舞台と似ているような気がしてなりません。魯迅の「互いに隔絶することのないように」と願った「新しい生活」は訪れたのでしょうか。それともまだ「偶像」のままなのでしょうか。

(意見には個人差があります。)


「故郷」における“希望”

“希望”とは

 辞書的には「こうなればよい、なってほしいと願うこと。また、その事柄の内容。」「望みどおりになるだろうというよい見通し。」とあります。

 文化祭でよく歌われる合唱曲でも「希望」というフレーズはとても明るい前向きな意味として使われることが多いようです。「希望」という語には、明るい前向きなイメージがあります。

 しかしこの作品の場合、本当にそのような前向きのイメージでとらえてよいのでしょうか。

 「」は、もとは「朢」と書いたそうです。
 「月」はそのまま月を、「壬」は人がつま先立ちをしている様子を表現しています。
 後に「臣」は「ボウ」の読み方を表す「亡」に置き換えられて現在の形になりました。

  ですから、望の原字は「臣(目の形)+人が伸びあがって立つさま」の会意文字です。

 それに月と音符の亡(ボウモウ)を加えたものが「望」という字になり、遠くの月を待ちのぞむさまを示しています。
 そこで「望」という字には、「ない物を求め、見えない所を見ようとする」という意味も含まれるようになりました。

 ルントウのことを回想するシーンと最後の故郷を離れるシーンに、次のような叙述があります。

  • 紺碧の空に、金色の丸い月が懸かっている。

 主人公は、「望」の字の中にある、遠くに浮かんだ「金色の丸い月」を、伸び上がって待ち望んでいるのでしょうか。

 「」は、目を細かく織った布を表す会意文字です。目を細かく織った布は隙間がほとんどないことから「まれ」であることを意味します。
 ですから「希(のぞ)み」というのは、めったにないことをこいねがうことから派生した意味です。

 ですから、「希」+「望」は、「ほとんどないことを求める気持ち」となります。

 現在の、明るい将来を目指したような意味とは、微妙に違っていますね。

 この「希望」という言葉は、故郷から旅立つ場面に出ていきます。
  • 希望という考えが浮かんだので、私はどきっとした。
 この部分は、初発の感想で多くの生徒の印象に残っているフレーズです。原文でも「我想到希望」となっていますから、訳した際に使われた言葉ではありません。作者自身が積極的に「希望」という単語を使っていることがわかります。

 「希望」という言葉には、

  • 実現する可能性がほとんどない、激レアな理想の世界を、それでも待ち望まずにはいられない

という気持ちが込められているような気がします。

三つの“望”

 「故郷」には三つの“望”があります。“望”とはもともと、背伸びした人が月を眺めている姿を表しています。

 最初が「失望」、次に「絶望」、最後が「希望」です。 

失望

 「故郷」の冒頭、最初の“望”は「失望」です。

 「ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか」と言い、「もともと故郷はこんなふうなのだ」「自分の心境が変わっただけだ」と言い聞かせます。

 では「私の覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった」という、故郷とはどのようなものなのでしょうか。

 かつてのルントウの姿を回想する場面です。

  • 紺碧の空に、金色の丸い月が懸かっている。その下は海辺の砂地で、見渡すかぎり緑のすいかが植わっている

 この「金色の丸い月」の下に広がるスイカ畑に立つルントウ=小英雄の姿に「私はやっと美しい故郷を見た思いがした」と感じます。

 これが「私」が思い描く「美しい故郷」のイメージです。

絶望

 しかし現実のルントウの登場でこの幻想は無残に打ち砕かれます。

 ルの等の「旦那様……」という言葉を聞いた瞬間、

  • 私は身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた

とあります。相当なショックだったのでしょう。

 「悲しむべき厚い壁」とば、身分の差のことです。「私」は地主でありルントウは小作人です。この身分の上下を厳しく規定し、それを守ることは当時の儒教の教えでした。そしてそのような儒教的な考えを打ち破ろうとしたのが魯迅たちが行おうとした文学革命だったのです。

 「美しい故郷」の象徴だった小英雄ルントウの姿に「絶望」したのです。

希望

 最後の場面で甥の言葉を聞き、冒頭のスイカ畑を連想します。しかしそこに小英雄の姿はなく「金色の丸い月が懸かっている」だけです。

 「私」が作品を通して思い描いていた「美しい故郷」とは「望」の字に含まれている月だったのかもしれません。

 理想の世界である「美しい故郷」「新しい生活」などというものが本当にあるのかないのか、それは誰にもわかりません。たとえて言えば「金色の丸い月」のようなものだと言えます。「金色の丸い月」は「手に入りにくい」もので「偶像」のようなものなのです。

 「地上の道」を、どんなに歩いて行っても月にたどり着くことはできません。しかし、月に向かって歩こうとしなければ、理想を見失い、理想を待ち焦がれることもなくなってしまいます。

 だから「歩く人が多くなれば、それが道にな」り、更に「美しい故郷」や「新しい世界」に向かって歩いて行くことができるようになるのだ、と言いたかったのではないでしょうか。

 “希”とは織り目がまばらな布を示す字です。ですから「まれ(数が少ない)」という意味がもともとの意味です。「希(まれ)な望み」つまりめったに叶うことのない望みが「希望」の意味なのではないでしょうか。

 今の日本での使われ方と違って、ずいぶんとネガティブですね。だからこそ「私の望むものは手に入りにくい」と言っているのでしょう。 

何を“望”むのか

 「迅ちゃん」が求めているのは「美しい故郷」です。「美しい故郷」とは、ルントウとの回想場面に出てくる「紺碧の空に、金色の丸い月が懸かっている。その下は海辺の砂地で、見渡すかぎり緑のすいかが植わって」と空から順番に書かれていて、その最後に小英雄(ルントウ)のいる風景です。ところが最後の場面で「まどろみかけた私の目」には「海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月が懸かっている」と、最初とは逆順に「金色の丸い月」を見上げていくように書かれています。そこにはもう小英雄はいません。そして「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」と締めくくられています。

 この風景の中で「迅ちゃん」は「金色の丸い月」を“望”めていたのではないでしょうか。貧富の差や身分の差がない「互いに隔絶することのない」「新しい生活」を求めていて、その象徴が「金色の丸い月」だったように思えます。しかしそんな生活は、今の「迅ちゃん」にとって、まさに天上界の理想郷です。いくら地上の道を歩いて行っても、天に輝く金の月に行き着くことはできません。しかし、だからといって、行くことをあきらめて誰もそこを目指さないと、現状は変わりません。「歩く人が多くなれば、それが道になる」と考え、叶わない望みとわかっていても、いつかはそこにたどり着くと願って進もう、というのが“希望”の意味だったのではないでしょうか。

窓一つない、壊すことが絶対できない鉄の部屋があり、中に熟睡している人間が大勢いる。間もなく窒息死してしまうだろう。このまま何も知らずに死なせた方がよいのか、大声を出して起こした方がよいのか。起こしてしまえば、どうせ助からない死の苦しみを与えることになる。

このように魯迅は考えていました。

 しかし「数人でも起きたとすれば、その鉄の部屋を壊す希望が絶対にないとは言えないのではないか」という友人の言葉により、彼は小説を書くことを決意した、と言われています。


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